小倉の記憶1
原爆が広島、そして長崎に投下された。
予定では小倉が広島の次の投下地であったが、前日の八幡東区の大空襲で黒い煙が次の日まで立ち昇り投下地の場所が分からずに長崎に行くことになった、と伝えられている。
小倉には造兵廠があった。現在の大手町である。日本では広島・長崎・小倉・新潟の4か所に投下されるはずであった、という。
日本でも原爆の開発・製造がすすめられていた。ほぼ完成一歩手前だった、と伝えられる。
さて日本のどこで、その原爆が製造されていたか?というと、小倉造兵廠であったのではないかという話が、私なりに推測できる。
大手町の近くに原町という住宅街がある。私はその原町に幼いころから住んでいた。大手町 昔”小倉造兵廠”といわれた場所に小学校2年の頃に、よく友達と入っていった。まだ、木町側と北側の出入口は鉄の門で閉ざされており、私と友達はそれをよじ登って中に入った。
そして、いつもウランに使った後の石綿を見ながら「原爆を作っていたんやのぉ!」と話した。その友達は木町の県営アパートに住み、現大手町とは目と鼻の先で、造兵廠のことを親から聞いたのか、とても詳しかったのを覚えている。
もう一人僕の住んでいた原町に別の友達がおり、その家が敷地千坪もある豪邸であった。敷地内には、離れを含み四から五軒の家が建っていた。野球ができる位に広い庭であったし、コンクリートで出来た防空壕がガッチリ造られていた。その防空壕に入って遊ぶのも楽しかったが、特に当時は疑問も感じなかった。
その友達は二十歳過ぎに亡くなり、今はマンションが建っている。そしてそこに彼の家族が住んでいた以前、つまり終戦前にドイツ人が住んでいたという話を聞いたのはずっと後のことだ。
戦前から防空壕があり、広い敷地に車が停められていたり、何軒もの家があり。ここには、造兵廠と関係のあるドイツ人が住んでいたのだろう。そして造兵廠に残されていた、石綿がウランに本当に関係があったのなら、原爆が小倉で造られていたことになろう。
戦争中にドイツ人が住んでいたのは日本とドイツが連盟国であったから、頷けるし、核を開発していたドイツが完成間近であった話も聞く。
小倉に原爆を2番目に落とそうとした意図は、造兵廠があったからではなく、原爆を製造完成寸前であったことをアメリカが知っていたからであろう。
この結びつきで小倉造兵廠がどんな処で、当時何があったかを、知るのは五十年たってのことだった。
今は証明するものは何も残っていないが、今だからこそ書き残しておかねばと思う、私の記憶である。
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